わたしの室崎琴月さん

2020年9月
高岡市芸術文化オンライン発信事業作品「夕日をみつめて」

2011年室崎琴月生誕120周年にあたって

版画はがき『夕日』(3枚組み)

2011年2月20日、室崎琴月生誕120周年記念コンサートが高岡市民会館で開かれた。さらに2011年は名曲 童謡「夕日」作曲90周年の節目でもある。これまで琴月さんの生い立ちを文章や挿絵にしたり、顕彰活動などに携わったりしてきたものの、その都度、新たな琴月さんを発見してきた。
「知っているようで知らなかった琴月さん」を改めてたどってみた。

2011年室崎琴月生誕120周年、卓話より

☆知っているようで知らなかった琴月さん

<はじめに>

 私と琴月さんとの出会いは約20年前になります。といってもそのときはすでに琴月さんは鬼籍に入っておられましたから、直接お会いしたわけではありません。当時、私は小学校教員でした。教員11年目、平米小学校の校歌は琴月さん作曲です。そしてさらに、私の大好きな母校の高陵中学校校歌も琴月さん作曲ということがわかって、琴月さんの魅力に取り付かれました。

 平米小には3年間の勤務でしたが、ちょうど地域を学ぶ3、4年生を担任させていただきました。当時はまだ琴月さん長女の信子さんがおられましたので、琴月さんのことをうかがいに何度かお邪魔しました。そして身近に夕日の作曲家であり、高岡に尽くされた素晴らしい方がいらしたことを初めて知って、どうしても子どもたちに伝えたい、琴月さんの歩みは子どもたちの生きる糧のひとつになるはずとの思いから教材文を書きました。

 「夕日をみつめて」は、私が感銘を受けた琴月さんの人生をまるごとまとめたようなものでした。これは内容が詰まりすぎていて、単なる読みものであって教材文ではないということでボツになりました。そこで道徳教材として、徳目を愛校心の一つにしぼって書き直したのが「わたしたちの校歌」です。これで子どもたちと授業したのが、私の琴月さんとの出会いからの取り組みでした。その後、私は大島絵本館に出向という立場で、立ち上げから6年間勤務したわけなんですが、その間、ボツになった「夕日をみつめて」が、というよりも琴月さんのことがどうしても忘れられなくて、手作り絵本「室崎琴月先生物語-夕日をみつめて-」にしました。そして、その後もなぜか琴月さんに関する文、挿絵、活動に携わりながらきましたが、その度、新たな琴月さんを学ぶ機会となっています。音楽の専門分野でもない私がなぜと思われるでしょうが、専門でないからこそ感じえたことがあるのかもしれません。また、子どもの教育に携わっていたことが、琴月さんに思いを馳せることにつながったのかもしれません。あらためて琴月さんの一生をざっと辿っていきたいと思います。よろしくお付き合いください。

1.山町に生まれ育った琴月さん

<ハンディーが音楽の道へ>

 琴月さんは、明治24年2月20日、木舟町の綿糸商に4人兄姉の末っ子として生まれました。2歳の時に子守りさんの不注意で股関節を脱臼してしまい、手当てが遅れて片足が不自由となってしまいました。それで、幼いときから外で駆け回って遊ぶこともできず、静かに家の中でハーモニカをふいたり、オルガンを弾いたりして過ごすことが多かったのです。それでも琴月さんは子守りさんを恨むことなく、かえって自分を音楽の道へと進ませてくれたのはこの足のおかげだったと後に書いておられます。さて、琴月さん、音楽の道をめざして、19歳の春、家族の反対を押し切って上京します。

2.東京時代の琴月さん

<演奏家から作曲家へ>

 3年間の苦学の末、東京音楽大学(現 東京芸術大学)本科ピアノ科に入学した琴月さんは最初から作曲家になろうと思っていたのではありません。当時は作曲を専門に勉強するところがなかったということもあるのですが、はじめはピアノの演奏者を目指して音楽を勉強していたのです。ところが琴月さんに転機が訪れます。早春賦の歌詞で名高い吉丸一昌先生の「木がくれの歌」に琴月さんが曲を付けほめられたことでした。

 大正6年、音楽学校を卒業した琴月さんは東京谷中に私立の音楽学校の草分けとなる中央音楽学校を創設。若き校長となり、自身も作曲の勉強をつづけました。

<「夕日」誕生秘話>

 さて、「夕日」誕生へと話は進みます。大正10年、町の書店で偶然手にした児童雑誌「白鳩」に葛原しげるの「夕日」の詞を見つけます。高岡で見た夕日の美しさを忘れられずにいた琴月さんはたまらなく気に入り、早速作曲を試みます。ところが「みんなのおかおもまっかっか」で終わっては、夕日は沈んでいかないと、一面識もなかった葛原さんをたずね、最後に「ぎんぎんぎらぎら日が沈む」の一行を付け加えることを願い出て快諾を得ます。そして一気に書き上げ誕生したのが、童謡「夕日」でした。琴月さん30歳の時でした。

 大正12年、突如として起こった関東大震災。東京都心はあらゆる高層ビルが壊滅。まる二晩燃えつづけ、皮肉なことに、焼け野原となった東京では、美しい夕日がどこからでも見られるようになったのです。打ちひしがれた中で、自然と歌いだした子どもたちの「夕日」の歌に、大人も一緒に歌って元気を取り戻し、復興へとつながったというのです。これを機に、「夕日」は大いに歌われました。さらにもうひとつ、学校舞踊家が振付をして全国の学校へ教えに回ったことで津々浦々まで歌われることとなったのでした。

<童謡作曲家、室崎琴月>

 こうして「夕日」の曲は、琴月さんの童謡作曲家としての道を決定づけることになりました。時は童謡の隆盛期、葛原しげるのほか、北原白秋、野口雨情、西城八十などの詩に曲をつけ、数々の童謡を生み出していきました。琴月さんの東京時代は童謡作曲家として輝かしい活躍ぶりだったのです。そのことを物語る資料が高岡市立博物館の琴月コーナーにあります。「最新学校唱歌遊戯 第1輯」です。琴月さん作曲の25曲すべてに振付が書かれている昭和5年発行のものです。これは当時の学校教育の中でいかに琴月さんの曲が多く歌われ踊られていたかということにほかなりません。

3.戦後、高岡時代の琴月さん

 さて、時代は大正から昭和に入り、童謡の時代は長くは続きませんでした。世の中は次第に戦争への道へと進んでいったのです。そして昭和20年、東京大空襲。建てた学校も自宅ももちろん楽譜もすべてを失い、琴月さんは着の身着のまま高岡に帰ってきました。それでも音楽への情熱は薄れることはありませんでした。作曲と音楽教育に邁進します。

 戦後の暗い高岡市民の心を元気づけてくれた曲があります。「夕日」の曲が関東大震災の復興へとつながったように、明るく躍動的な「高岡市民の歌」は、戦後の高岡市民の心をどれだけ奮い立たせてくれたことかと想像します。そして、さまざまな新しい形で音楽を市民の心に届け、広め、活力を与えてくれた琴月さん。市民合唱団や児童合唱団の結成。ママさんコーラスの婦人合唱団は、まさに全国の先駆け、高岡発信の音楽活動でした。高岡は琴月さんのおかげで最先端の音楽教育を施されたと言っていいでしょう。

 作曲された校歌、社歌、寮歌。地元のために作曲した「公園愛護の歌」「雷鳥の歌」などたくさんあります。県内の琴月さん作曲の校歌を見てみても30校を超えています。

4.童謡作曲家を貫かれた琴月さん

<東京と高岡の二つの地で>

 さて、晩年になっても琴月さんの音楽への思いは衰えることはありませんでした。昭和43年、琴月さん77歳のとき、東京谷中に中央音楽学院として音楽学校を再建。以降は東京と高岡との両方で音楽活動を続けました。琴月さんの心は常に音楽で子どもたちに夢を与えたいとの思いを貫かれていました。生涯2000曲を超える曲を作られた琴月さんは、昭和52年、東京谷中の自宅にて86歳で亡くなられました。その前年に砺波市へ寄贈された「チューリップ」の歌があります。とっても素朴でかわいい歌なんです。室崎琴月さんってほんとに、子どもたちが楽しく歌って踊って、夢を描いて生きていく姿を願った童謡作曲家だったんだなぁとあらためて感じます。

5.高岡に息づく琴月さん

 銅器のまち高岡が、彫刻のあるまちづくり事業として制作した第1号が、童謡「夕日」をテーマにした「ぎんぎんぎらぎら」像です。「子どもたちに音楽で夢を!子どもたちに明るい未来を!」という琴月さんの思いがこの像に象徴されているように感じます。明日の晴天を約束する希望の「夕日」に向かって、像の子どもたちはそれぞれの顔を輝かせています。

<おわりに>

 最後に私からの提案は「琴月通り」ができたらいいなぁという夢です。境港では「水木しげるロード」。私の大好きな童謡詩人金子みすゞさんの生まれた山口県の仙崎には「みすゞ通り」があります。仙崎の駅からみすゞ記念館までの通りが「みすゞ通り」とよばれ、通り沿いの軒先にはみすゞさんの詩が掲げられていて、一遍ずつ読みながら行くといつの間にか記念館にたどりつくというものです。

 琴月さんは生涯2000曲もの曲を作曲されました。その中から好きな曲を選んで一軒ずつ楽譜を掲げましょうよ。できるものかどうか分かりませんが、彫金による楽譜などいかがでしょう。音楽が流れたら最高ですね。その家の方が歌ってくださるのもいいかも。明治、大正、昭和の趣を色濃く残す山町筋が、童謡の「琴月通り」としても楽しめる、そんな散歩道になったら楽しいと思うのです。琴月さんの生家もあります。土蔵造りのまち資料館を山町資料館とでもネーミングを変えて、今置かれているオルガンのほかにも琴月さんの資料を充実させて「琴月通り」として繋ぎましょう。童謡を歌う会などが開かれたら、楽しいと思いませんか。自ずと童謡ファンも訪れるでしょう。交流の輪が広がりそうです。

富山インターネット市民塾
「越中人譚~越中人のはなし~<親子で学ぶ富山に生きたすばらしい人々>」
~ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む 名曲「夕日」の作曲家~室崎琴月より

(文 故小沢 昭巳氏)

夕日が二上山の稜線に消えるころ、末広坂小公園からは、ミュージックサイレンの柔かな響きが街に流れます。

ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む

室崎琴月さんのこの懐かしいメロディが、勤め帰りを急ぐ人たちの心に小さな明かりを灯します。

ぎんぎんぎらぎらのブロンズ像は、末広坂に面して建っています。大きな球の台座は真赤な夕日で、渦巻のデザインは夕焼雲なのでしょう。そして、夕日に向かって両手を挙げる子どもたちの群像。

ところが、このブロンズ像の子どもたちは、夏が来るとかわいい浴衣(ゆかた)を着るのです。今年も白と青を基調としたさわやかな装い。近くの北陸銀行高岡支店女性職員の手作りの浴衣です。

「夕日」は、琴月さんのふるさと高岡にこれほどまでにとけこんでいるのです。

☆どんな人だったの?…

室崎琴月さんは、明治24年(1981)、高岡の大きな商家に生まれました。小さい時から音楽が好きで、小学生のころからハーモニカやオルガンを弾(ひ)き、中学生(旧制高岡中学校)の時には、親に内緒でバイオリンを買い、夜になってから蔵(くら)に入って稽古(けいこ)をしていたそうです。

中学を終えると上京し、音楽への道に進みたいと考えましたが、家族の同意を得ることができません。

当時は、音楽など男の子の進む道ではないとされていたからです。しかし、琴月さんの思いは固く、明治43年(1910)、家出同然の形で上京し、音楽学校を受験するための準備を始めました。

東京へ出て初めてピアノというものに触れたと、後に琴月さんは回想しています。この時代の琴月さんの努力が、どんなに大変なものであったかが想像されます。

それに、琴月さんは、片足が不自由という障害を背負っていました。幼い時、雇(やと)いの子守りの不注意で片足を痛めてしまったのです。しかし、琴月さんは、このことをかえって心のはげましとしていたのかも知れません。

3年後の大正2年(1913)、琴月さんは、東京音楽学校(現在:東京芸大)ピアノ科に入学します。

作曲を志すきっかけとなったのは、国文学の教授吉丸一昌先生との出会いでした。吉丸先生は、歌曲「早春賦」の作詞者として知られています。

ある時、吉丸先生は、自作の「木がくれの歌」という詩を示して、生徒たちに曲を付けるように命じました。この時に琴月さんの付けた曲が吉丸先生の賞讃を受け、琴月さんは、作曲家の道へ進もうと決意したそうです。

大正6年(1919)、東京音楽学校を卒業した琴月さんは、東京上野に「中央音楽学校」という私立の音楽学校を創設しました。しかし、琴月さんは、校長として生徒を教える傍ら、自らは研究科に進み、作曲を深く究めようと努力しました。

☆なしとげた仕事は?…

このころ、子どもの歌う歌は、学校で教えられる「唱歌(しょうか)」から、新しく登場してきた「童謡」に変わろうとしていました。明治になって作られた「唱歌」には、歌詞が難しく、音楽としての楽しさに欠けるものが多かったからです。

そして、北原白秋や西条八十というような詩人、本居長世、中山晋平、弘田龍太郎などの作曲家たちが、それにこたえるかのように、子どものための新しい歌を次々と生み出していたのです。

子どもが心から歌えるような歌を――という童心主義の芸術運動が高まりを見せていたのです。

琴月さんの童謡「夕日」はこのような時代の雰囲気(ふんいき)の中で誕生しました。琴月さんが、30歳のときでした。

琴月さんが「白鳩」という児童雑誌の中に葛原(くずはら)しげる作「夕日」という詩を見つけたのは大正10年(1921)のことでした。

この詩の透(す)きとおったようなイメージに魅(ひ)かれた琴月さんは、心に浮かび出た曲想をもとに一気に書きあげたといいます。

しかし、曲の組み立て上、4行だった元の詩の後に“ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む”の1行を追加した方がいいと考え、作詞の葛原さんに相談し、賛成を得、童謡「夕日」が完成したといいます。

また、曲想を練(ね)っていた時、高岡古城公園から見た二上山の夕日が何度も浮かんできた、と琴月さんは語っています。

この曲が多くの人たちの心をとらえたのは、2年後の大正12年(1923)に起きた関東大震災(かんとうだいしんさい)の時だったといわれます。

建物の崩壊と市街のあちこちで発生した火災によって東京は焼け野原となりました。

建物のなくなった焼け野のどこからでも夕日が見えました。西の空に沈む美しい夕日に人々は心を奪われました。「市民たちは、泣きながら『夕日』を歌っていた」と詩人の西条八十は琴月さんに手紙で書き送っています。

童謡「夕日」の反響が琴月さんに童謡作曲家への道を開きました。その後、「チョコレートの唄」〔西条八十詩〕、「千代紙」〔西村醉香〕など数々の名作が誕生します。

昭和20年(1945)、琴月さんは、戦災によって自宅も中央音楽学校もすべて失い、郷里高岡へ帰ります。それから琴月さんの郷里での音楽活動が始まります。高岡に中央音楽学校分教場を設け、器楽や声楽を教え、市民合唱団や児童合唱団を組織します。

また、作曲活動も旺盛(おうせい)で「高岡市民の歌」をはじめ、小中学校の校歌や社歌。団体歌などを数多く作曲します。

戦災で失った中央音楽学校が再建されたのは、昭和43年(1968)でした。琴月さんは、高岡と東京とを往復して音楽活動に当たりました。

今、高岡古城公園の夕日の良く見える丘の上に、
童謡「夕日」の音楽碑が建っています。

黒みかげの石に譜面が刻み込んである珍しい石碑です。

ここは、琴月さんの好きな場所だといいます。

夕日を眺め、音楽家になる意志を固めた場所だったともいいます。

室崎 琴月(むろさき きんげつ)

明治24年(1891)
高岡市に生まれる。本名清太郎。
明治43年(1910)
旧制高岡中学校卒業。上京。
大正2年(1913)
東京音楽学校(現在:東京芸大)ピアノ科に入学。
大正6年(1917)
私立の「中央音楽学校」を設立。
大正10年(1922)
童謡「夕日」を作曲。
昭和20年(1945)
戦災ですべてを失い帰郷。
昭和43年(1968)
東京に中央音楽学校再建。
東京と高岡で音楽活動。
昭和52年(1977)
逝去。享年86歳。