わたしの大伴家持さん

万葉版画絵本「春のうた」を制作して

☆1996年制作

春のうた

 梅の花が満開となり、ほのかな香りを辺りにただよわせています。

 万葉版画絵本の三作目「春のうた」が、ようやく仕上がりました。春は、家持が残した越中万葉歌の中では、一番多く詠まれている季節です。都から遠く離れた越中の国において、遅い春はさぞ待ち望まれたことでしょう。それだけに、春を迎えた喜びは格別のものがあったと思われます。目に映る草花、耳に聞こえる様々な音、肌に感じる空気からも、鋭敏に季節を感じ取り、自然との関係においても人との関係においても、感性が研ぎ澄まされていたように思います。

 今の自分はどうかとふり返ってみますと、ここ数か月、勤務先と家とを車で往復する毎日。休日は絵本を仕上げることであわただしく過ぎ、自然の声を聞き、感じる心をすっかり失っていました。はっと気づくと、大地を覆っていた真っ白な雪にかわって、草木がいつの間にか新しい芽を次々と出していました。季節はまさに冬から春に移っていました。

 家持の越中万葉歌を見ていますと、天平勝宝二年(七五〇)三月一日から三日にかけての三日間に集中して秀歌が生まれていることに以前から心引かれていました。春の喜びともの悲しさの相対する二つの気持ちが詠まれていることにも魅力を感じました。その三日間の歌を何度も眺めているうちに、私の頭の中に浮かんできたドラマがこの絵本です。万葉集については、全く不勉強者の私ですから、絵本は、家持の歌から勝手に思いめぐらした私の絵と話であり、歌で詠まれている実際とは異なる部分もあります。でも、それは、現在に生きている私が、千二百年以上も昔の家持の歌を介して、そして今の自然を介して、想像したこととしてお許しをいただきたいと思います。

 以前制作した二冊に比べ、今回の「春のうた」は、題名や内容に合わせ、墨を使わずにグレーを中心に淡い色を多く使って仕上げました。製本をしてページをめくってみますと、全体がぼけてしまったようで、思いの半分も満足いくものにはなりませんでした。でも、これも作ってみたから思えることとし、今の時点での一作の完成としたいと思います。お蔭様で製本の技術はたくさん学ぶことができました。これからは、原点にもどって版の味を生かした版画絵本を作っていけたらと思っています。

 つたない手づくりの絵本ですが、ご覧いただきご指導くだされば幸いです。

1996年3月末日

絵本「雨ごいのうた」によせて

☆1994年制作

雨ごいのうた

 絵本「雨ごいのうた」を作りたいという思いは、一昨年の秋ごろからありました。第一作目の「鷹のうた」に続いて、小学校での群読劇の第三場面を絵本にして残しておきたいと思ったのです。冬ごろから少しずつ取りかかりました。

 そのうち、春も過ぎ、絵本にある夏の季節がやって来ました。しかし、夏になっても、いっこうに暑さは感じられません。絵本のような日照りの夏とは正反対の、雨が降り続く寒い夏でした。夏の暑さのことで頭がいっぱいでしたのに、思わぬ寒さの夏に、どうしても「雨ごいのうた」の絵本を作る気持ちにはなれませんでした。それに、なにしろ、うちは農家です。田んぼ仕事は、両親がやっているのですが、いくら田んぼに出ていない私でも、天候が気になります。雨ごいでなく、晴れ乞いをする毎日となりました。でも、何日たっても、とうとう、夏の暑さは感じられませんでした。

 オロオロして手つかずになったまま、秋が訪れました。実りの秋だというのに、日本列島は不作のきびしい秋でした。絵本とはこれまた全く反対の結末でした。

 家持時代の人々は、自然の力にしか頼るすべはありませんでした。それだけに、自然の力の偉大さを強く感じ取っていたに違いありません。何よりも、自然の恵みのありがたさを深く感謝していたことでしょう。かえって今よりも、うまくきびしい自然と対話しながら暮らしていたのかもしれません。昔の人々の自然に対する必死の祈りには、言魂があったのかもしれません。それに対し、今のわたしの心はどうでしょう。自然に対する畏敬の念を忘れかけていたわたしの願いなど、自然には全く通じなかったように思えてなりませんでした。

 それから新しい年を迎え、自然への思いを新たにしながら、ようやく、中断していた絵本「雨ごいのうた」の製作を再開しました。

 今年の冬は、何回かドカ雪が降り、春の訪れも遅いようです。ようやく絵本が仕上がった三月の今も、窓の外は、雪がちらついています。窓ガラスもストーブもなかった家持の時代には、さぞ、この寒さが身にこたえたことだろうと思えてなりません。

三島野に 霞たなびき しかすがに
昨日も 今日も 雪は降りつつ
      (万葉集 四〇七九)

1994年3月吉日

万葉版版画絵本を作ってみて

☆1992年制作

鷹のうた

 万葉版版画絵本「鷹のうた」が、ようやく仕上がりました。この絵本は、二年前大島小学校で六年を担当していたとき、大島にまつわる話を劇にと学校祭で上演した群読劇の台本の一部を絵本化したものです。上演後、手作り台本をなんとか形として残しておきたいと思っていたおりに、昨年の八月、手作り絵本コンテストの応募を知りました。台本を絵本にしてまとめてみようと、すぐ乗り気になりました。どうせやるなら版画の絵本にしようと下絵をかきました。ところが、締切まで一週間しかなく、結局、下絵に彩色して製本したものを出しました。初めての応募で「ま、今回はとにかく出してみて、来年、版画にして出し直すわ」くらいの軽い気持ちで出したものが、全国学校図書館協議会賞というすばらしい賞をいただき、信じられない気持でした。

 応募してから受賞通知までの約三ヶ月間、自分では全く受賞するとは思ってもいませんでしたから、コピーしておいた下絵を白と黒に分け、版画にする作業を始めました。ところが、実際に版画制作にはいってみてだんだんと、版画がいかに手間ひまかかる大変なものかが身にしみてわかってきました。簡単に版画絵本にしてみるわなんて思っていたことがとんでもないことだったのに気付き、これはちょっとやそっとじゃできないぞ覚悟しなくてはと思い始めたのは、年も明けてからでした。

 というのも、小学校教員の仕事をしながらの版画製作はとてもむずかしいものがあります。ふだんは小学校の仕事で精一杯。版画も、週一度父が教える版画教室に通い、製作の時間を確保するようにしているのですけれど、忙しいときはそれも休みがちでなかなかはかどりません。まとまった時間がほしい、時間があれば・・・と冬休みを楽しみにしていました。そして冬休み、これで一気にやるぞと思っていましたが、版木を彫るのはそんなに楽ではなく一日彫るともう指先から腕、肩が痛くなってずっと時間の限り彫り続けるなんてことはできませんでした。年が明け、冬休みが終わるころになっても絵本の版木はまだ七枚ぐらいしかできていませんでした。

 だんだん意欲も失いかけていましたが、版画教室の人から「やることがはっきりしていていいねえ、楽しみやねえ」などと言ってもらえ、とても励みになりました。自分でも楽しみでやるのだから少しずつ気長にやるわと気持ちの切替えができました。そうこうしているうちに三月初旬、新聞に版画絵本製作中の記事が載りました。それは、私が父の版画教室に通いながら版画絵本を作っている父子のほほえましい姿として載ったのだと思いますが、反響は大きく、さっそく出来上がったらほしいという予約が、父のもとに入りました。全く面識のない方からの連絡もあり、本当に驚くやらうれしいやら・・・それからは一日も早く仕上げてせっかく連絡くださった方に届けなくてはと熱が入りました。春休み中には版木を全部仕上げて、五月の連休中には刷って製本だ、よし、連休明けにはなんとか届けられると意気込みました。

 ところが、連休、刷る作業に入ってまたもやあまりにも刷ることをあまくみていたことを思い知らされました。というのは、一日に刷れる手刷りの枚数は限られているということです。刷りは父のアトリエでさせてもらいましたが、朝から始めて午前中休まず刷って三十枚が限度。全身の力をかけて刷りますから、もう、三十枚刷るとふらふらになります。ひるごはんを食べて、午後一時から夕方まで休まず刷り続けてやっぱり三十枚が限度です。これまた、もう力もでなくなって右胸から右腕のつけねにかけてつっぱるように痛くなってきます。筋肉痛です。夕御飯食べて夜にまた三十枚。もうくたくたで、寝るだけです。御飯の用意や後片付けさえもせず、ただ、ひたすら版画刷りだけしてやっと、絵本三ページ分です。気の遠くなる思いでした。二日目は筋肉痛で刷りに力も入りません。三日目になると、もうあきらめました。連休中にしなければならない学校の仕事もあり、これは連休中に仕上げるのはとうてい無理。またもや、気長に構えなくては・・・と計画を変更しました。刷りは、途中でやめると版木が乾いて墨加減も変わってきて大変やりにくいので一気にやらなくてはいけません。三~四時間のまとまった時間が必要なのです。それからは、土曜日の午後、または、日曜日に父のアトリエに行き、刷る作業をさせてもらいました。

 刷った版画は、版画教室で裏彩色を施しました。裏に絵の具をぬって表に染み出すやり方ですが、これが、水の量や和紙の種類によってなかなか表に出てこなかったり、反対に出すぎたり、または、乾くと色が変わったりして四苦八苦しました。

 裏彩色のあとは裏打ちです。薄い和紙だけでは絵本のページとしては弱いので、版画の和紙を画用紙に貼る作業です。夜、版画一枚一枚に、といた糊を刷毛でぬり、画用紙にのせてこすっていましたら、主人も見るに見兼ねて手伝ってくれ、ずいぶん助かりました。ところが、乾くと、ひよってくるし、糊が薄かったのかはがれてくるものや部分的にぶかぶかと浮いてくる物が続出。表具師さんは、どのようにしておられるのだろう。苦労があるのだなあ。見様見まねでやってもやっぱりうまくいかないものだなあと、がっくりきました。あまりひどいもの四~五十枚は、やり直しをしましたが、少々のものはもう気力もなく、そのまま製本の作業に入りました。

 裏打ちしたものを半分に折り、ページの背中合わせになる部分をボンドではりあわせるのです。そして、圧をかけておいて周りを裁断。そうやって一冊中身の仕上がった物に表紙を付けてみました。白ボール紙に表紙の版画を裏打ちして中身と貼り合わせてみましたが、どうも開きがうまくいきません。突っ張ってしまって開ききらないのです。乾燥すると表紙がひよってきてとても見られた物じゃありませんでした。それで、表紙の付け方を絵本作りのビデオを貸してもらって研究したり、製本の仕事をしておられる所を訪ねて教えていただいたりしました。矢部製本さんを訪ねたときは、もう半分以上自分で製本することをあきらめ、そんなに高額でなければ最後の表紙付けの仕上げはやってもらおうと思っていました。ところが、大変親切な方で忙しい中にもかかわらず、いやな顔ひとつせずやり方を教えてくださり、おまけに「ここまで自分でやったがやったら、最後までがんばってみられ、でっきるちゃ」と勇気づけられ、見本に作ってみるのに表紙用の厚紙さえも切ってくださったのです。おかげで再びやってみようとという気になり、一部さっそく作ってみて見てもらいに行きました。そこでは、背表紙部分がぶかぶか浮いてしまう直し方を教えてくださっただけでなく、表紙用の厚紙を枚数分、サイズに合わせて裁断してくださいました。このことが、大きな励みとなり、最後まで仕上げようという意欲が出てきたのです。

 7月は、学期末で忙しくてそれどころでなくなり、しばらくまた中断になりましたが、通知表を渡し終えてからいよいよ最後の表紙付けにかかりました。表紙として刷っておいた和紙が小さかったことも教わり、ひとまわり大きな和紙にはることから始めました。そして、裏に表紙用の厚紙をはり、周りを包み込むように糊付けしました。最後、中身の絵本と表紙をしっかり接着して出来上がりです。中身の裁断で二ミリほど小さくなったのもあって、せっかく教えていただいた表紙の製本方法がうまく生かせないのもあって残念でしたが、とにかく、ようやく七月下旬になって仕上がりました。

 しかし、そうしているうちにも中身で和紙がはがれてきたり、糊が薄かったためか中で浮き上がってきたりしました。それに落ち着いて見てみると、自分の名前がどこにもありませんでしたし、背表紙も考えてなかったので、あわてて背表紙用に題名と自分の名前の版画を作り、刷ってはりつけた始末です。三十枚ずつ刷りましたが、仕上がったのは、二十五部です。どの一冊として満足いくものにはなりませんでしたが、初めて作った素人の手作りと思って、どうかご了承下さい。

 版画絵本を思い立ってから、一年近くがたちました。その間、家事をほうって製作に時間を使わせてもらって家族には迷惑をかけたと思っています。何度も落胆し、あきらめかけましたが、いつも家族に協力してもらったり、周りの人に声をかけてもらったり、助けてもらったりしたおかげで、ついに、こうした形とすることができました。自分がつらいときや必死に求めているとき感じたのは、人との出会いの不思議さや人のありがたみでした。世の中にはなんと良き人が多いものか、版画絵本を作ってみて一番感じたことです。

 製作中に、値段はいくらかと聞かれ、こんなに苦労しているのだから、いくらだって安すぎるなんて思ったりしていましたが、今は、私一人では到底仕上がらず、周りで支えてくださったおかげと、ただただ、こういう形となって仕上がった喜びと安堵感でいっぱいです。これは、値段のつけようもなく、また、売れるような立派な品になったわけでもなく、形となった二十五部は非売品として、既に予約してくださったありがたい方々やお世話になった方々にお分けしたいと思います。

1992年8月吉日